フランスの民俗学者のファン・ヘネップの『通過儀礼』が岩波の文庫として発売になった??のかはわかりませんが、文庫ということで安価で手に入るようになりました。
この本は民俗学、人類学、宗教学などなど人文系学問に大きな影響を与えた文献と言えると思います。儀礼を初めて体系的に論じ、誕生から死までの折々の儀礼、入会の儀礼などを、分離・過渡・統合の過程をたどる通過儀礼の視点で捉えた。特に過渡期という境界状況の考察は、コミュニタス理論など後の人類学の理論的展開の基盤となった。
最近では、評論家の島田裕巳先生がAKBの誰かの記事を書いたことが話題になったときにおそらく議論の中心の概念となったテキストだと思います。
私は早速購入しました…
7/04/2012
4/06/2012
震災後の死生観語り合う
西日本新聞のHPに興味深い記事がありました。すでに終わったシンポジウムなんですが、下記に転載させて頂きます。
このシンポジウムは西日本宗教学会が開催したもののようで、討論者のメンバーが有名人ばかりです。情報をもっと早くにしいれていたら参加したのにな~~
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「死者のフォークロア」と題したシンポジウムが31日、福岡市城南区の福岡大であった。東日本大震災を経た日本人の死生観について、人類学や民俗学、宗教学の専門家が語り合う形で「価値観の多様化がより鮮明になってきた」などとする意見をまとめた。
シンポジウムは同大と西日本宗教学会の共催。元日本文化人類学会会長の波平恵美子氏が、大震災で行方不明になった家族を現在も捜し続ける遺体へのこだわりは日本人の特徴と紹介。一方、火葬場のお骨を「宅配便で自宅に送ってほしい」と、死者にこだわらない人たちが増えてきたことにも触れた。
国際日本文化研究センターの小松和彦教授(民俗学)は、日本人が遺体や位牌(いはい)などを重視するのは、死者とともにあろうとすることの表れと分析。波平氏は「その関係が弱まれば、人間に救いようのない虚無感だけが広がる」と指摘した。
そうならないために、九州大の関一敏教授(宗教学)は「伝統だけにとらわれず、死者との関係を救済する『何か』を作っていかなければならない」などと語った。
3/21/2012
日本人の死生観を読む
毎日新聞の今週の本棚という企画欄に島薗進先生の『日本人の死生観を読む』が紹介されていました。
以下の通りです。
http://mainichi.jp/enta/book/hondana/news/20120318ddm015070013000c.html
今週の本棚:沼野充義・評 『日本人の死生観を読む』=島薗進・著 (朝日選書・1470円)
◇むき出しの「死」とまともに向き合うために
文明はおぞましいものを人の目から隠す。その最たるものは死だろう。特に日本では報道でも死体を映しだすことを極力避けるので、いまの子供たちは人の死に直面することがほとんどない。ところが、昨年三月の大震災は突然、死をむき出しの形で私たちに突きつけた。一方、原発事故はまだ放射能による死者を出していないと指摘する人がいるとはいえ、多くの人々と広大な土地と自然を緩慢な死の潜在的な危険にさらした。
そんな折に、ぜひ読むべき好著が出た。『日本人の死生観を読む』は、近代日本において「死生観」を表現した日本人の書物やテキストを読み解いていくことによって、人の生き死にとはいったい何であるのか、考える本である。著者は「死生学」という耳慣れない多分野的学術研究のリーダー格として尽力してきた宗教学者。「納棺師」、つまり死者を葬儀の前に棺に入れる儀式に携わる人を主人公とした映画「おくりびと」とその原作から説き起こし、「死生観」という言葉を確立した明治時代の宗教思想家、加藤咄堂(とつどう)にいったんさかのぼり、それから作家の志賀直哉、民俗学者の柳田国男とその業績を引き継いで独自の学問体系を展開した折口信夫、戦艦大和に乗って沖縄特攻作戦をかろうじて生き延びた吉田満、そして最後には、がんと直面して生きた宗教学者の岸本英夫と作家の高見順へと、考察を進めていく。
ここに登場する死生観はじつに多様であり、ここで簡単に要約することはできない。儒教・仏教・武士道を背景に「死生観」を打ち立てようとした加藤咄堂に対して、乃木大将殉死の報(しら)せを聞いて「馬鹿な奴(やつ)だ」と日記に書いた志賀直哉。日本の「常民」に見られる「円環的」(生まれ変わりを信ずるといった)死生観を理解しながら、それが近代社会においてどのように生かされうるのかについて考えた柳田と折口。戦争やがんといった、個人の力では対抗できないものに直面し、虚無を見てしまったところから、改めて生の意味をとらえ直した吉田満や高見順。
ちなみに、ロシアの文豪トルストイは、若いころ、ある田舎町の宿で夜中にはっきりした訳もないのに、それまで体験したこともない激しい死の恐怖に襲われたという。ある意味では、その後の彼の生と巨大な作品の数々は、その恐怖を克服しようとする努力の軌跡だった。私たちはよりよく生きるためには、そして、生きることの喜びを感じるためには、死を見つめなければならない。それはまた本書から響いてくるメッセージでもある。島薗氏の書き方は学者的でつねに冷静、思いのたけを感情的に吐露するということはないが、それだけにここで取り上げられている事例の一つ一つが重く胸を打つ。
本書の効用のもう一つは、優れた文学作品の力を改めて、死生観という角度から照らし出してくれることだ。冒頭に引用される宮沢賢治の「ひかりの素足」は、雪の中で死にゆく弟を必死に助けようとする兄の話だが、生と死を見つめる賢治の透徹したまなざしには、誰しも心を揺さぶられることだろう。学校で読まされたとき退屈だった志賀直哉の『城(き)の崎にて』も、見違えるようだ。
私は根が軟弱なので、いまだに権益を守ることや保身に汲々(きゅうきゅう)としているように見える電力会社経営者や、役人や、御用学者たちに、「責任を取れ」などとは言わない。ただ、せめて死にまともに向き合いなさい、と言いたい。どうかこの本を読んで考えてください。
宗教学者の著書が全国版の新聞で紹介されることって珍しい(よくわかりませんが…)かと思い紹介いたしました。
以下の通りです。
http://mainichi.jp/enta/book/hondana/news/20120318ddm015070013000c.html
今週の本棚:沼野充義・評 『日本人の死生観を読む』=島薗進・著 (朝日選書・1470円)
◇むき出しの「死」とまともに向き合うために
文明はおぞましいものを人の目から隠す。その最たるものは死だろう。特に日本では報道でも死体を映しだすことを極力避けるので、いまの子供たちは人の死に直面することがほとんどない。ところが、昨年三月の大震災は突然、死をむき出しの形で私たちに突きつけた。一方、原発事故はまだ放射能による死者を出していないと指摘する人がいるとはいえ、多くの人々と広大な土地と自然を緩慢な死の潜在的な危険にさらした。
そんな折に、ぜひ読むべき好著が出た。『日本人の死生観を読む』は、近代日本において「死生観」を表現した日本人の書物やテキストを読み解いていくことによって、人の生き死にとはいったい何であるのか、考える本である。著者は「死生学」という耳慣れない多分野的学術研究のリーダー格として尽力してきた宗教学者。「納棺師」、つまり死者を葬儀の前に棺に入れる儀式に携わる人を主人公とした映画「おくりびと」とその原作から説き起こし、「死生観」という言葉を確立した明治時代の宗教思想家、加藤咄堂(とつどう)にいったんさかのぼり、それから作家の志賀直哉、民俗学者の柳田国男とその業績を引き継いで独自の学問体系を展開した折口信夫、戦艦大和に乗って沖縄特攻作戦をかろうじて生き延びた吉田満、そして最後には、がんと直面して生きた宗教学者の岸本英夫と作家の高見順へと、考察を進めていく。
ここに登場する死生観はじつに多様であり、ここで簡単に要約することはできない。儒教・仏教・武士道を背景に「死生観」を打ち立てようとした加藤咄堂に対して、乃木大将殉死の報(しら)せを聞いて「馬鹿な奴(やつ)だ」と日記に書いた志賀直哉。日本の「常民」に見られる「円環的」(生まれ変わりを信ずるといった)死生観を理解しながら、それが近代社会においてどのように生かされうるのかについて考えた柳田と折口。戦争やがんといった、個人の力では対抗できないものに直面し、虚無を見てしまったところから、改めて生の意味をとらえ直した吉田満や高見順。
ちなみに、ロシアの文豪トルストイは、若いころ、ある田舎町の宿で夜中にはっきりした訳もないのに、それまで体験したこともない激しい死の恐怖に襲われたという。ある意味では、その後の彼の生と巨大な作品の数々は、その恐怖を克服しようとする努力の軌跡だった。私たちはよりよく生きるためには、そして、生きることの喜びを感じるためには、死を見つめなければならない。それはまた本書から響いてくるメッセージでもある。島薗氏の書き方は学者的でつねに冷静、思いのたけを感情的に吐露するということはないが、それだけにここで取り上げられている事例の一つ一つが重く胸を打つ。
本書の効用のもう一つは、優れた文学作品の力を改めて、死生観という角度から照らし出してくれることだ。冒頭に引用される宮沢賢治の「ひかりの素足」は、雪の中で死にゆく弟を必死に助けようとする兄の話だが、生と死を見つめる賢治の透徹したまなざしには、誰しも心を揺さぶられることだろう。学校で読まされたとき退屈だった志賀直哉の『城(き)の崎にて』も、見違えるようだ。
私は根が軟弱なので、いまだに権益を守ることや保身に汲々(きゅうきゅう)としているように見える電力会社経営者や、役人や、御用学者たちに、「責任を取れ」などとは言わない。ただ、せめて死にまともに向き合いなさい、と言いたい。どうかこの本を読んで考えてください。
宗教学者の著書が全国版の新聞で紹介されることって珍しい(よくわかりませんが…)かと思い紹介いたしました。
10/29/2009
神々の明治維新
安丸良夫 1971 『神々の明治維新』岩波新書
本の題名だけで興味津々です。
実はまだ読んでないんですけど、書評やネットで読む限りちょっとおもしろそう。
「神仏分離と廃仏毀釈を通じて、日本人の精神史に根本的といってよいほどの大転換が生まれた、と主張するものである。・・・この転換は、国際社会の力と力の闘技場へ加わろうとしたときの、一つのまだ弱小な民族の自己規定と自己統御にかかわっていた。この力の闘技場へ加わるためには、私たちの民族は、みずからの内的な弱さと不安に対応して、その弱さと不安をいっきょに代償する精神の内燃装置を必要としていた。・・・だが、そのためには、どんなに大きな飛躍と抑圧とが必要だったことだろう。伝統は、この課題にあわせて分割され、再編成された。」
など書かれていました。
う~ん…難しそう…
本の題名だけで興味津々です。
実はまだ読んでないんですけど、書評やネットで読む限りちょっとおもしろそう。
「神仏分離と廃仏毀釈を通じて、日本人の精神史に根本的といってよいほどの大転換が生まれた、と主張するものである。・・・この転換は、国際社会の力と力の闘技場へ加わろうとしたときの、一つのまだ弱小な民族の自己規定と自己統御にかかわっていた。この力の闘技場へ加わるためには、私たちの民族は、みずからの内的な弱さと不安に対応して、その弱さと不安をいっきょに代償する精神の内燃装置を必要としていた。・・・だが、そのためには、どんなに大きな飛躍と抑圧とが必要だったことだろう。伝統は、この課題にあわせて分割され、再編成された。」
など書かれていました。
う~ん…難しそう…
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