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3/20/2013

「二〇世紀民俗学」を乗り越える

福田アジオ・菅 豊・塚原伸治 著 『「二〇世紀民俗学」を乗り越える』書評記事「消えてよい学問か」(3月17日 読売新聞14面)

東京大学東洋文化研究所の紹介文を下記に掲載させて頂きます。

現代民俗学とは、「二〇世紀民俗学―これまでの民俗学」に、これまでなかった新しい学知を付加し、さらに、「二〇世紀民俗学」を乗り越え、新しい民俗学へと変革を目指す学問の流れである。ここでいう「二〇世紀民俗学」とは、二〇世紀に柳田国男たちによって始められた日本の土着文化の理解とその復興運動、そして、その学問化を進めた運動を指す。それは、ある時代の要請によって生成した「時代の産物」であり、当初は「野の学問」として出発し、百年近い時間の経過とともに体系化され、組織化され、そして制度化された。この「二〇世紀民俗学」の成立の最終段階で、大きな役割を果たした民俗学者の一人に、本書が主題化した福田アジオ氏がいる。
  福田氏は、柳田の民俗学を批判的に継承した民俗学者である。福田氏は、まさに「二〇世紀民俗学」の申し子といっても過言ではない。いま現代において民俗学を標榜するのならば、私たちはこの「二〇世紀民俗学」からの飛躍を試みなければならないだろう。それは、福田氏、および同時代の人びとの学問を乗り越えることでもある。
  しかしながら、その乗り越え、あるいはそこからの飛躍は、これまで自らが意識せずに、自覚せずに依って立ってきた、寄りかかってきた「二〇世紀民俗学」の根本―目的、方法、対象―を更改しなければならない作業であり、ことによってはそれを捨て去らなければならないほどの困難な作業である。そして、「二〇世紀民俗学」を捨て去ったときに、新しい民俗学が再生されるとは限らないのである。
  本書は、二〇一〇年七月三一日に東京大学東洋文化研究所で開催された東京大学東洋文化研究所班研究「東アジアにおける「民俗学」の方法的課題」・現代民俗学会・女性民俗研究会が共催したシンポジウム「《討論》福田アジオを乗り越える―私たちは『二〇世紀民俗学』から飛躍できるのか?―」で取り交わされた、福田氏との熱論の記録である。本書が、「『二〇世紀民俗学』を意識的に継承する」という方向性と、「『二〇世紀民俗学』を捨てて新しい民俗学を構築する」という方向性との相克や軋轢を顕在化させることにより、今後の民俗学を転換する起点を生み出す一助となれば幸いである。 とりあえず今の民俗学の中で一番とがった部分(?)というかもっともおもしろいところではないででしょうか。


2/05/2013

宗教のレトリック

「宗教のレトリック」 中村圭志著 文章技法がもたらす心理作用

というこの著書の書評が日本経済新聞に掲載されていました。
評者は橋爪大三郎氏
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO51030200W3A120C1MZC001/
以下は抜粋です。


宗教学者中村圭志氏の手にかかると、キリスト教も仏教も儒教もイスラム教も道教も、レトリックの塊(かたま)りであると明らかになる。

 レトリックとは、直喩/隠喩/換喩/提喩/誇張/対比/列叙/逆説/…といった、文章技法の総称。レトリックに詳しい中村氏はこれら素材別 に、さまざまな宗教のテキストを料理し、10章に仕上げた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」(イエスの説教)は対句。「善人なほもて往生をとぐ、 いはんや悪人をや」(歎異抄)は逆説。本書はさながら「世界の宗教レトリック大全」である。
 宗教学者はそもそも、逆説めいた存在だ。いっぽうでさまざまな宗教を、客観的・学問的に考察する。特定の宗教にとらわれるわけにはいかな い。だがもういっぽうで、宗教が人びとをとらえる強烈な磁力の核心に迫っていく。それには宗教にひきこまれる瀬戸際まで、身を乗り出さなければならない。 著者はこの矛盾を、どう引き受けようとするのか。
 本書は宗教を、かずかずのレトリックの心理作用が人びとがとらえる働きに、還元する。そして、さまざまな宗教のテキストをばらばらにし、レ トリックの技法に従って配列する。こうした相対主義の手順で、宗教は安全で無害なものになる。レトリックなら文学者におなじみで、その作用もたかが知れて いる。だが宗教は、レトリックに還元できるものなのか。
 著者はこうも言う。《我々はみな、自分が世界の中にどうやって…生まれ出るのか、その不思議さをうまく理解していない》。こうした《実存の神秘》や《文化の恩寵(おんちょう)》は曖昧にしか意識できないから、《神仏の存在》を空白のように確保しておくのだ、と。
 『信じない人のための…』シリーズの著者でもある中村氏は、信じないことにこだわっている。信じさせる宗教の力に、それだけ深く魅了されて いるとも言える。レトリックは、宗教の強烈な磁力から中村氏を隔てる防護柵のようなもの。こうした逆説的な仕掛けを必要とするほど、宗教はパワフルなので ある。その威力の輪郭を本書は、読者に届けてくれている。