3/21/2012

日本人の死生観を読む

毎日新聞の今週の本棚という企画欄に島薗進先生の『日本人の死生観を読む』が紹介されていました。
以下の通りです。
http://mainichi.jp/enta/book/hondana/news/20120318ddm015070013000c.html


今週の本棚:沼野充義・評 『日本人の死生観を読む』=島薗進・著 (朝日選書・1470円)
◇むき出しの「死」とまともに向き合うために
 文明はおぞましいものを人の目から隠す。その最たるものは死だろう。特に日本では報道でも死体を映しだすことを極力避けるので、いまの子供たちは人の死に直面することがほとんどない。ところが、昨年三月の大震災は突然、死をむき出しの形で私たちに突きつけた。一方、原発事故はまだ放射能による死者を出していないと指摘する人がいるとはいえ、多くの人々と広大な土地と自然を緩慢な死の潜在的な危険にさらした。

 そんな折に、ぜひ読むべき好著が出た。『日本人の死生観を読む』は、近代日本において「死生観」を表現した日本人の書物やテキストを読み解いていくことによって、人の生き死にとはいったい何であるのか、考える本である。著者は「死生学」という耳慣れない多分野的学術研究のリーダー格として尽力してきた宗教学者。「納棺師」、つまり死者を葬儀の前に棺に入れる儀式に携わる人を主人公とした映画「おくりびと」とその原作から説き起こし、「死生観」という言葉を確立した明治時代の宗教思想家、加藤咄堂(とつどう)にいったんさかのぼり、それから作家の志賀直哉、民俗学者の柳田国男とその業績を引き継いで独自の学問体系を展開した折口信夫、戦艦大和に乗って沖縄特攻作戦をかろうじて生き延びた吉田満、そして最後には、がんと直面して生きた宗教学者の岸本英夫と作家の高見順へと、考察を進めていく。

 ここに登場する死生観はじつに多様であり、ここで簡単に要約することはできない。儒教・仏教・武士道を背景に「死生観」を打ち立てようとした加藤咄堂に対して、乃木大将殉死の報(しら)せを聞いて「馬鹿な奴(やつ)だ」と日記に書いた志賀直哉。日本の「常民」に見られる「円環的」(生まれ変わりを信ずるといった)死生観を理解しながら、それが近代社会においてどのように生かされうるのかについて考えた柳田と折口。戦争やがんといった、個人の力では対抗できないものに直面し、虚無を見てしまったところから、改めて生の意味をとらえ直した吉田満や高見順。

 ちなみに、ロシアの文豪トルストイは、若いころ、ある田舎町の宿で夜中にはっきりした訳もないのに、それまで体験したこともない激しい死の恐怖に襲われたという。ある意味では、その後の彼の生と巨大な作品の数々は、その恐怖を克服しようとする努力の軌跡だった。私たちはよりよく生きるためには、そして、生きることの喜びを感じるためには、死を見つめなければならない。それはまた本書から響いてくるメッセージでもある。島薗氏の書き方は学者的でつねに冷静、思いのたけを感情的に吐露するということはないが、それだけにここで取り上げられている事例の一つ一つが重く胸を打つ。

 本書の効用のもう一つは、優れた文学作品の力を改めて、死生観という角度から照らし出してくれることだ。冒頭に引用される宮沢賢治の「ひかりの素足」は、雪の中で死にゆく弟を必死に助けようとする兄の話だが、生と死を見つめる賢治の透徹したまなざしには、誰しも心を揺さぶられることだろう。学校で読まされたとき退屈だった志賀直哉の『城(き)の崎にて』も、見違えるようだ。

 私は根が軟弱なので、いまだに権益を守ることや保身に汲々(きゅうきゅう)としているように見える電力会社経営者や、役人や、御用学者たちに、「責任を取れ」などとは言わない。ただ、せめて死にまともに向き合いなさい、と言いたい。どうかこの本を読んで考えてください。

宗教学者の著書が全国版の新聞で紹介されることって珍しい(よくわかりませんが…)かと思い紹介いたしました。

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