seesaa

11/30/2009

上座部仏教の政治社会学

石井米雄 1975『上座部仏教の政治社会学』創文社

東南アジア研究の第一人者の石井米雄先生です。
この先生はもともと歴史学をしていた人です。法律からタイの仏教、歴史、王権などなどを解明しようとしている人です。

この文献は仏教に関する法律からタイの福田思想や外来宗教との接触などを描き出している文献です。

ただただ読み込む文献の量がはんぱじゃないことと語学がかなり達者なことがよくわかります。

11/28/2009

『呪術・科学・宗教』

スタンレー J.タンバイア 1996(1990)多和田 裕司 訳『呪術・科学・宗教』 思文閣出版

文化人類学の思想的遺産を受け継ぎながら宗教とはなにかを考察した本です。しかしそれを考えるための材料となるのは他者の文化ではなく、他者の文化を理解しようとしてきた文化人類学者自身の営みです。

11/23/2009

異文化理解

青木保 2001 『異文化理解』 岩波新書

IT化、グローバリゼーションが進み、日常的な接触、交流が増大した「異文化」を理解しているのだろうか。異文化の衝突はいまなお激しく、ステレオタイプの危険性や文化の画一化がもたらす影響も無視できない。
文化人類学者としての体験や知見を平易に展開しながら、混成化する文化を見据え、真の相互理解の手がかりを探る…

タイ・バンコクで出家経験のある著者の経験や人類学者としての視点から、異文化とはどのようなものかを書いた著作です。

11/04/2009

柳田國男先生です。言わずとしれた民俗学者です。生家のある

日本各地に残る、言い伝えや生活習慣、言語、信仰などの分析・研究を通して、
日本の歴史、成り立ちを探っていこうとする学問を民俗学といいます。

歴史学が文献を通して、国の歴史を研究することに重点が置かれているのに対し、
各地での聞き取りやフィールドワークといった手法により、
庶民の歴史を明らかにしようとするのが民俗学の特徴であります。
歴史学に近接した学問領域であるといえると思います。

こうした民俗学を創始し、学問として確立させたのが、柳田国男でありました。
今回は、こうした柳田国男の生涯と、彼が生み出した民俗学についてまとめてみます。


柳田国男は、明治8年(1875年)兵庫県神東郡田原村辻川(現・神崎郡福崎町)の生まれ。
父は、儒学者で医者でもあった松岡操という人でした。
彼の家は、決して裕福でなく、住む家も日本各地を転々とするなど、
苦しい生活の中、様々な苦労をして育ちました。
しかし、国男はそうした中でも、懸命に学問に打ち込み、
やがて、地域でも一番の秀才として知られていくようになっていきます。

明治30年(1897年)
東京帝国大学法科大学(現在の東大法学部)に入学。

上京してからは、森鴎外と出会い、又、島崎藤村、田山花袋ら、自然主義派の文学青年と交流。
文学に興味を示し始め、この頃は、文筆活動を積極的に行いました。
雑誌「文学界」にも新体詩を発表。
斬新な詩作により、島崎や田山などの文学仲間にも刺激を与えていたといいます。

しかし、彼は、文学の道を目指すことはありませんでした。
明治33年(1900年)
東京帝国大学法科大学を卒業後、農商務省農務局に勤務。
官僚の道を進み始めます。

その翌年には、大審院判事を勤める柳田直平という人のもとへ、
養子として入籍、この時から柳田国男と名乗ります。

何か、この頃の国男は家庭的な問題でうまくいっていなかったようで、
文学への道を断念したのも、養子にいった事も彼の本意ではなかったようです。
どこか、鬱々とした気分で過ごす毎日だったのかも知れません。

しかし、そうした国男の人生の転機となったのが、
明治41年(1908年)の九州旅行でした。
宮崎県椎葉村で、狩りのしきたりについての話を聞き、
非常に鮮烈な刺激を受けたことが、
彼を民俗学の道へと向かわせるきっかけとなりました。

明治45年(1912年)には東北地方を旅行。

岩手県遠野の人で、文学者でもあった佐々木喜善から
遠野に伝わる様々な言い伝えを聞き取り、
それを「遠野物語」と題して発表しました。

「遠野物語」は、小編の物語119話から構成され、
河童・天狗・雪女などの妖怪や、神隠し・死者にまつわる怪談、
オシラサマ・ザシキワラシ等、地元で信じられている神様の話など
さまざまな、伝承がまとめられたものです。

そこには、仏教や儒教などの影響を受けることもない、
日本独自の素朴な庶民の姿が、生き生きと描かれていました。
「遠野物語」は、その高い文学性ともあいまって、
社会的にも反響を呼び起こしました。

「遠野物語」は、まさに、柳田民俗学の出発点となっていったのでありました。
国男は、その後、官職の傍ら、さらに民俗学の研究を続けていきます。

「蝸牛考」
カタツムリの呼び方が、地域により異なることに着目し、
その比較検討から、言語は近畿から地方へと伝播していったと推論。
このことから、文化は中心から周辺へと伝わっていったため、
周辺にかえって古い文化が残っているという説を唱えました。

「桃太郎の誕生」
昔話とは、もともと神話として伝えられていたものが変形したものであるとし、
各地に残る昔話を解析し、日本の固有信仰の姿を見い出そうとしました。

1920年(大正9年)には、官職から退き、東京朝日新聞社に勤務します。
国男は、この頃から沖縄に着目。
沖縄独自の文化に惹かれ、また、沖縄に日本文化の原型を見い出そうとしていきます。

「海上の道」
日本人の始祖は、宝貝(子安貝)を求め、
南海の島々を経ながら、海上の道を経て沖縄にやってきた。
その時に、中国南方で水田耕作されていた稲種を持ってきたのではないか。
日本文化は、沖縄から南島伝いに伝播してきたものであるとする仮説を展開しました。

1949年(昭和24年)には、日本民俗学会を発足させ、初代会長に就任。
1959年(昭和26年)文化勲章を受章。
1969年(昭和37年)8月8日 心臓衰弱のため死去、87才でした。

現在の民俗学研究は、多様化してきているようで、
必ずしも、柳田国男の研究成果の全てが、認められている訳ではありません。
柳田国男に対する批判も、少なからずあるようです。
しかし、柳田国男が日本民俗学の生みの親であり、
今日の日本民俗学の基礎を築き上げてきたことには、間違いありません。

柳田国男が、最初、民俗学に取り組むにあたって抱いていた問題意識は、
「なぜに農民は貧なりや」
というものでありました。

彼は民俗学の研究によって、現在における社会問題をいかに解決するかを、
歴史的に考えようとしたのでありました。
それが、やがて日本文化の成り立ちの探求へと広がっていきました。

柳田は民俗学について、
「目的においては、歴史家と同じ、ただ、方法だけが少し新しいのである。」
と話していたといいます。

柳田国男の民俗学は、異なる角度から歴史を見つめ直す方向性を示し、
歴史研究に広がりを持たせたものであったと言えるでしょう。

11/03/2009

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

ウェーバー1904(1988)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(大塚久雄訳 岩波書店)
かなりの古典です。もともと社会学の超有名人のウェーバーですが、宗教学よりのことも書いているので、紹介します。
 この本の中で「俗なるもの=資本主義システム」の解明をするため、「聖なるもの=プロテスタンティズム」の倫理が引き合いにだされ、この両者を媒介するものとして個人が位置づけられています。
 「方法論的個人主義」と呼ばれる立場に依拠しつつ、事象を個人にも社会にも還元せず、ひとつの流れとして読みとっていく手法は当時では画期的な方法のようにも感じます。
 これはこの本の中の一部ですが、読み手の軸の推移によって角度を変えてくるこの本はおすすめです。
 
 最近ではNeo-Liberalism新自由主義なんて言葉が良く出てきますが、これらの言葉の基盤がこの著書にあるのかもしれません。